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◆人間はどこへいくのか、総論2,死、魂、霊について

現代科学では人間は物質であり、一つのエネルギー現象としての私たちの生命活動があることが、

明白になってきました。

物理的にはエントロピー増大の法則により、

人間の脳と身体の秩序が保てなくなった時に死が訪れます。

ただ世の中一般で、これが理解されるのはなかなか難しいです。

人間の歴史は、解明されていないことや、理解できないことを神秘化してきました。

そして人間の脳はファンタジーや物語をつくるのが大好きで、大得意なのです!だからこそ、人間は様々なファンタジー(幻想)を作り、歴史を紡いできたのです。

特に人間の死後の世界に対する幻想(ファンタジー)は

死に対したいする怖れを緩和し、逆に尊厳や神秘として

宗教や伝承のセレモニーが生まれたのだとおもいます。

それも人間が生きる為の必然的な文化であったと思います。

それは日本人のアイデンティティーにもなっている大切な文化であるとおもいます。

だからこそ、それも踏まえながら、今回はこれまでの伝統的な死の概念ではなく、

新しく死をどのようにとらえるか、そして死をめぐる人間の関係性について

私が考えていることを書いてみます。

「死ねば死にきり、自然は水際立っている。」

これは詩人であり彫刻家であった高村光太郎の言葉です。

死とは、この言葉どうりであり、それに尽きると私は考えます。

人間は物質でありエネルギーであり、誕生して生きるということは,

自然そのものであり、言うなれば厳粛な生から死への

エネルギーの流れの世界でもあります。

人間とは死ぬものであり、そこで終わりであり、それ以後はなく、

むしろ死を恐れず、死をきちんと射程にいれた<生>こそが凛と輝いていくのだと私は思います。

霊についても同じです。

例えば木も草も虫も動物も、死んでその霊が祟るなんてことはありません。

彼らも死ねば死にきりです。ただ人間だけが高次機能の脳を獲得したために

死後の世界があるような幻想を作り出してしまうのです。

脳は平気で嘘をつく、とも言います。嘘をつくとは言わないまでも

●脳は自分の思いこみを膨らませて、それをファンタジーにします。

これも能機能の一つです。

では、魂とは何かというと、

魂とは、その人間の人生の出来ごとすべてだと思います。

その人が生きた何から何までが魂なのだと思います。そしてあえて霊というなら

霊とは「ことづて」だと私は考えます。

その人が生きてみて『あゝ人生はこうであったな~』と告げる、「ことづて」です。

生きて見せたその背中かえら伝わってくるもの。

次を生きる子孫たちはその背中から学び、善きことを告げ、教える、それが霊であると私は考えます。

お盆が来るとその霊(ことづて)を思い出し、忍び迎え火でお迎えし、最後は送り火で送る。

そういうセレモニーの中にこそ、私達の繋がりの息吹が宿る。

人間の<生>そのものが暗路の旅路です。

それは、どう生きるかを模索し、喜びと苦しみの谷を越える旅であり、

その旅すべてが、その人の生きた証になる。それが魂であり、

その魂が伝えようとする伝言(ことづて)こそが霊だと私は考えるのです。

そして人間は死後、身体とその精神(魂)は分解されて原子になり、

軽やかに天へと帰っていきます。

映画「どこかに美しい村はないか」では、その魂の帰郷を、能勢監督が美しい映像にしてくれました。

映画を見た方は覚えておられると思いますが、遠野のお盆では、死んだ人の魂を悼み敬い、

それを籠めた灯籠を川へ流します(フナっこ流し)。

映画の中で、灯籠は川を下りながらやがて天へと昇り、銀河の中へと消えていきます。

●人間の記憶は遺伝されます。

例えばお母さんやお父さんが持っている記憶の遺伝子は、

その人達が生きている間はその配列が変わることはありませんが、

親が体験して新しい情報を得たとします。

その情報は親の遺伝子の補足的な情報として書き足されます。

それが子供に遺伝された時は、記憶が書き換えられて遺伝するか、

或いは、記憶の一つのヴァリエーションとして遺伝されていきます。

つまり、その人(個体)の生存中は記憶の遺伝子が書き換えることはないのですが、

しかし何か経験して、こうしたほうがいいよ、という様な補足を記憶の遺伝子が獲得するのです。

その補足されたものは、次へと遺伝した時(自分の子供に遺伝したとき)には

捕捉が書き足された記憶の遺伝子が子に渡されます。

つまりその人が体験し考察して書き替えたことは確実に次の遺伝子で実現されていくのです。

そういう風にして人間は進化してきたのです。

だから善きことづて(霊)はちゃんと子孫に渡されていくと思いますよ。

最後に私くらいの歳になると、エネルギーも尽きてきますし、

気分としても、生きることも人生も、もうここいらでいいかな~と言う感じになってきます。

全ての人がそうではないと思いますが、立花隆氏の取材では、

以外とそういう老人が多いという事です。

やることはやりつくしたし、人間のことも世の中のことも、大体わかったし、と。

案外死ぬ時は、そういうものではないでしょうか。

最後に人間は物質です、というと身も蓋もないようですが、

いえいえそうでもないんですよ。

私達の分身であるその、小さな、ちいさな原子は天に上っていくのです。

そこには科学のロマンがあります。

そう、もしかしたら次の星の原子になるかもしれませんからね!

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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